おはようございます。今朝は実体験に基づく目標の精度についてご紹介させて頂きます。よろしければお付き合い下さい。

本書でも触れましたが、私は千葉県千葉市の出身です。中学校は土気中学校という中学を卒業しました。吹奏楽部の当時のコンクールでの成績は現在とは制度が違うので説明が難しく実力は「真ん中くらい」と申し上げておきますね。今で言ったらどうでしょう?B編成の地区大会の銀賞位なのでしょうか??それが廣沢先生という方が赴任し私が2年生の時にいきなり県大会で銀賞を受賞しました。その直後に縁があり私自身吹奏楽部に入部します。そして冬場を経て私にとっては3年生として最初で最後のコンクールに臨むことになりました。

その年の部の全体目標は「関東大会出場!」でした。課題曲はA(4曲中2番目の難易度)、自由曲はスペイン奇想曲でした。当時の制度では県大会を行いその中で金賞受賞校(10校くらいだったと思います)が後日「県代表選出コンクール」に出場し、その中で上位2校が関東大会に出場できる。というものでした。

夏休みに入ると部内の雰囲気は一層盛り上がり「関東大会!」と書かれたハチマキが配られ全員それを絞めて練習に臨みます。合宿も行い朝6時に起床し、練習は夜の11時近くまで行う事もありました。最後は部長の「関東行くぞ!」のコールに全員で「オー!」と答えて練習が終了するといった感じでした。まあ今こうして回想しても本当によく練習したと思います。貴重な経験をしたとは思います。もう一度やれと言われたら絶対嫌ですが(笑)。

結果はどうだったかと言えば県大会では金賞受賞し、その時の全体順位は何と1位でした!2週間後に行われる県代表コンクールでもこの順位をキープすれば関東大会の出場が叶います。一層気合を入れお盆返上で練習し、再び合宿も行いコンクールに臨みましたが結果は強豪校に逆転され上位2校に入ることは出来ませんでした。結果発表後全員が泣き崩れ「関東大会出場!」と目標を掲げた中学最後の夏は終了しました。

さて、この夏の結果を受け顧問の先生はじめスタッフ陣が来年に向けてリベンジすべくすぐに動き出したようです。尚この辺りは当時の廣沢先生や近い立場の方からの伝聞の為正確性に欠くかもしれませんが、概ねは合っていると思います。ご了承下さい。 まず来年の目標は「全国大会金賞」と位置づけ下記の通り選曲のコンセプトを決めました。

★課題曲(A~D)の中で最も難易度が難しい曲を選曲する。(当時は課題曲の難易度によって基礎点の底上げがあったとのことです。伝聞ですが)

★自由曲はそれまで中学生では選曲してこなかった難曲にチャレンジする。

以上のコンセプトに従って10月にはすでに自由曲を決定していたと思います。Fシュミット作曲の「ディオニソスの祭り」です。そしてすぐに1、2年生のみでこの難曲を練習し始めます。来年の課題曲が発送される頃にはある程度仕上げておくためにはこの時期からの練習が必要と判断したとの事です。とにかく難しい曲ですので、練習開始時本来のテンポを1/2のテンポに落とし、丁寧に練習していました。そして卒業生の私にとっては驚愕モノであったのですが、私が卒業する春先にはもう曲として概ね仕上がっていたのです。この流れで課題曲はA「変容-断章」という例年にも無い超難曲を選択し練習を開始します。

結果的に翌年度の結果に関しては県大会-関東大会-全国大会と駒を進める事ができ、全国大会でも金賞を受賞することが出来ました。全国大会に出場した約30団体の中で課題曲Aの選曲は土気中のみ。全国的にも中学生でこの課題曲の選曲は数団体しかなくいかに難しい曲であったかが分かります。加えて「ディオニソスの祭り」とのカップリングとその演奏の完成度に驚愕した方が多かったと当時複数の記事や関連雑誌が紹介していました。

長くなってしまいました。結果的には目標を達成することが出来た年でしたが、その為の周到な準備とアクションプランがあったことがご理解いただけるかと思います。勿論私の代の「関東大会に行くぞ!」という気合と根性の目標と練習もとても尊いものであったと思いますし、又この経験があったから翌年成し得た部分もあるかとは思います。しかし翌年の「全国大会に行くために」という前提で動いた計画と練習の精度はやはり前年とはレベルが格段に違っていたと思います。全国大会金賞受賞後の当日夜、中学校で廣沢先生とお話しする機会があり「おめでとうございます!」とお祝いしたところ一言「うん、疲れた...」と言っていました(笑)。大きな目標を達成した瞬間でしたが「嬉しい」というよりは「ホッとした」という心境だったのでしょう。達成者の瞬間の心境は案外こんな感じなのかも知れませんね(笑)