昨日は実体験の例を取って2年間の目標の違いについてご説明しました。今日はその2年間を通してのコンフォートゾーンの変化について簡単にご説明したいと思います。

それまでの土気中学の吹奏楽部のコンフォートゾーンは千葉県大会の中にしかありません。銀賞を受賞していましたから「銀賞が自分達らしい」と無意識にコンフォートゾーンを作っていました。何故無意識なのにそれを覚えているかというと、年が明けて「今年の目標は関東大会出場だ」と聞いた時に「金賞だって難しいのにそんな事できるのかな」と強烈に思った事を覚えているからです。怖いことに私はその銀賞受賞のコンクールには出てもいないのに(その直後の入部だったもので)勝手にそのイメージを植え込んでいたのです。

しかし、その後ハードな練習とそのたびに「関東大会!」と何度もコールしたりされたりしている事によりコンフォートゾーンは上がってきたようです。実際県大会で金賞受賞した瞬間は「嬉しい」というより「通過点を一つクリアした」という感覚だったのです。今にして思えば明らかにコンフォートゾーンが上がった感覚でした。ほんの半年前までは「金賞は難しい」だったのが「金賞は通過点、当り前、落とさなくてよかった」といった風に見事に無意識ゾーンは変化していました。

その後の展開は昨日の通りで私自身は卒業後、外からこの吹奏楽部のコンフォートゾーンの変化を感じることになりました。夏休み前にOBとして練習を見学に行った際まずびっくりしたのが、初心者で入部しているはずの1年生がたったの3ヶ月しか経っていないのにとてつもなく上手になっている事でした。オーボエやファゴットなどただでさえ難しいと言われる楽器を初心者の1年生が立派に吹いている様に心の底からびっくりし、先生や3年生の後輩に「今年の1年生凄いね!」と言うのですが、一様に「え~そうかなあ」といった感じの返事なのです。前年夏のコンクール後翌年の全国大会の目標に向けて練習を進める中で、先生と下級生は私の代よりはるかに高いコンフォートゾーンを構築し、それによって「これが普通。出来て当り前」のレベルが私の頃よりはるかに高くなったという事だと今にしては思います。

そして全国大会に初出場した後は、コンフォートゾーンはそのレベルに設定され、自動的にそのレベルを維持しようとする機能が働くため、指導者からすると以降の指導はとても楽になったのではないかと思います。実際当時から指導にかかわってくれて、その後廣沢先生の後任顧問として土気中を率いて頂いた加養先生と後年お話をする機会があったのですが、その際「お前たちの時が一番練習した」と述懐してくれています。

自身の学校の話しが長くなってしまい恐縮ではありますが、コンフォートゾーンの変化の実例なので挙げさせて頂きました。私のコーチングの師匠で現在世界規模で活躍されている吉武永賀さんという方がいらっしゃいます。彼はもともと公立高校の陸上部を全国大会常連校に育て上げたアスリートコーチの出身ですが、その方も「現在のコンフォートゾーンを破って上に行く時が一番工夫と力が入る。一旦上がってしまえばあとは自動的に維持する機能があるから例え全国大会でも連覇は可能」と仰ってこれを「強豪校理論」と名付けています。

長くなってしまいましたので、強豪校理論とコンフォートゾーンの関係のまとめは明日お話し致します。